きよら通信  〜きよら鍼灸院 高野のブログ〜

祐天寺駅から徒歩3分の住宅街にある小さな一軒家で鍼灸マッサージ治療をしています。

今更ですが布マスク。

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合気道仲間から布マスクをいただきました。

縫製業を営んでいたおじいさまが縫ったそうで

突っ込みどころなしの美しい仕上がり。






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実はここまでマスク生活が長くなると思っていなかったのと

鍼灸院では遮蔽効果の高いマスクを着用するべきという信念から、

今まで1枚も布マスクは持っていなかったのです。




自転車に乗っている時はノーマスク派だったのですが


最近は人の視線を感じることがあり
その都度煩わしさを感じていました。


なんだか世間の圧に負けたような気もしますが
自転車に乗るときにこちらをつけることにします。
寒風の中、顔が暖かいです。

長寿の心得 湯呑

1963年の調査で153人だった100歳以上の高齢者は
今年、なんと8万450人になったそうです。
あれー 3万人くらいだと思ってたのにいつの間に。
日本人の平均寿命は女性が87.45歳で男性が81.41歳、
今週久しぶりに面会に行く祖父は98歳。コロナ下での施設の方針ということで、面会時間15分、離れた部屋でのビデオ面談のみ。
ビデオの画面越しで耳の遠い祖父とまともな会話が成り立つのか、
スキンシップ抜きでコミュニケーションできるのかとても不安・・・
早く警戒が解けて前みたいにマッサージして、その後に持っていったお寿司を一緒に食べる という面会をしたい。


長生きするというのは甘いもんじゃないなとわかっているつもりだけど
こんな心意気で生活できたら素敵ですね。


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長寿の心得


人生は六十才より


七十才にしてお迎え来る時は「仕事中」と云え


八十才にしてお迎え来る時は「まだまだ早い」と云え


九十才にしてお迎え来る時は左様「せかさずともよい」と云え


百才にしてお迎え来る時は良い時節を見てこちらから「ぼつぼつ行く」と云え


百二十三にしてお迎え来る時は「長寿の会と相談してから」と云え




祐天寺 きよら鍼灸院
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近視から網膜剥離になる

どうも最近 コンタクトレンズだと近くのものにピントが合いにくい。
ついに老眼がきた。
しかし、一口に老眼と言っても同い年でもかなり個人差がある。
コンタクトレンズの処方箋を取りがてら、
自分はどのくらい進んでいるのか、というチェックのために
久しぶりに眼科へ。
前々から、私の場合 近視が進みすぎて眼球が変形して
網膜や神経の周囲を圧迫している、というのは
以前受けた検診で何度か言われたことがあるので
眼底検査もお願いする。


結果。
左目、網膜が薄くなりすぎて、すでに穴が空いていました。


えええええええ?
ステイホームのツケがここに。
手芸のやり過ぎか、アニメの見過ぎか。両方だね。


ここで、自分が30年くらい網膜剥離を誤解していたことが判明。
予備校生の頃、講師の先生が網膜剥離で入院。
状況によっては失明することもある、というので
絵描きが失明なんて!と生徒みんなでやきもきしたのが30年前。
その後、大学の同期のTちゃんから聞いた自分の網膜剥離体験。
「突然目の前に大きな黒い点が現れた。網膜に穴が空いてて
手術した。原因は近視が酷いからだって」
近眼なだけで網膜が剥がれる可能性があることに一番驚いたけど、
網膜に穴=視界が欠ける
ことだと思い続けていた。
なので、
目の前で医師が何の抑揚もなく
「左目の網膜に穴が空いています」
と言うのも、
「レーザーで焼く治療がありますがどうします?
今日やっていきます?後日にします?」
と言うのも、
驚くと同時に拍子抜け。
もっと深刻そうに言われるものだと思っていたし
網膜に穴が空いたらその場で見えなくなってすぐ自分でわかるものだと...
視界が欠けるのは、網膜が裂けたところから硝子体の水分が入り込んで
そこが黒い点となる、というメカニズムで、
そうならなければ自分では気づきにくいらしい。
剥がれたところから水分が入れば入院・手術コース。1週間~3週間の入院となる。
昔講師の先生がした例の手術、あの時先生は多分30代前半だったけど大変だったよねえ...


今回はそうなる前に予防的処置をするということ、すなわち
穴の周りをレーザーで焼いて固定してその部分からは水分が入り込まなくなるようにする。
少なくともその部分は剥がれる心配がなくなるが、
今回固定しても、薄くなっているのは事実なので
再び別のところに穴があく可能性は否めないそうだ。
ううむ...


ある日突然手術で入院、は困るので
後日に延ばしてはいけないと思い、

その場でレーザーで裂けた穴の周囲を焼いてもらうことにした。


機械の上に顎を乗せて頭を固定し、
目の中にコンタクトレンズ状のものを挿入してレーザーを当てていく治療は
目の奥が多少チクチクしたが医師の手つきも慣れたもの、
想像しているよりはあっさりと済んだ。
気楽に受診してさっさと帰るつもりが、眼科を出られたのは4時間後。疲れた...
近視は相変わらず酷いので今より視力が良くなることは永遠にないが、
メガネやコンタクトをかければ免許更新ができる程度にはちゃんと見える。
目の良い人が羨ましいと思い続けてきたけれど
網膜剥離で手術、運動制限、なんていうことを想像したら寒気がして、
矯正すれば見えるんだから良し!とする。


ちなみに私のように近視が進みすぎて網膜が薄くなっている人には
最近スタンダードになってきている近視矯正手術は推奨されない。
母もど近眼だったけれどここまで悪くなかったしなあ。
薄くなったものはもうどうしようもないのでこれ以上悩んではいけない。
身体の弱点は弱点としてガッチリ受け止めて
小豆のアイマスクと目のツボ集中ケア、

自分で頑張ります。



古い帯でコースター。

涼しくなってきたと思うと日差しが強くなってきて、
そしてその合間に土砂降りになったりすぐ止んだり
不安定なお天気ですが、
今日は過ごしやすい と思って温度計を見たら30度!という、
暑さにもちょっと体が慣れてしまっていて
こうして高齢者は脱水や熱中症になるんだと実感します。
まだまだ暑いので施術後にお茶を出すだけだと水分補給が足りないかもしれません。
マイボトルご持参の方も多いですが
お水は常時冷やしてありますので
いつでもご遠慮なく「み~ず~」とおっしゃってくださいませ。


先日、東京国立博物館の「きもの展」に行ってきました。
自分が着る予定はないんだけれども
あらためて、テキスタイルとしてのきもの地の魅力は永遠。
一緒に行った大輝先生は日本刺繍を習っていたことがあるそうで
黙々と作業することが全く苦痛でない&細かい柄が好きな身としては
日本刺繍も将来ちょっとやってみたい気持ちはあるけれども
そろそろ老眼が進み始め・・・縫い物がいつまでできるやら。
きもの展から帰って即、
何かに使おうとずっと取っておいた大好きな配色の古い帯でコースターを作りました。





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川辺寿々洋先生のこと

川辺先生はあん摩マッサージ指圧の実技担当教員だった。
小柄で目が細く、いつもにっこり笑ったようなお顔をしていた。
おっとりした穏やかな話し方で、
授業の時には怒ったところを見たことがなかった。
当時学校の研究室でアルバイトをさせてもらっていたので
学生の中ではそこそこ色々な先生と交流がある方だったけれど、
個人的に1対1でご飯を食べたのは後にも先にも川辺先生とだけだ。
学校の近所でランチしながら色々な話をした。
私が卒後に子宮筋腫の手術で入院した時には同期とお見舞いに来てくれた。
若い頃にヨルダンでマッサージ師をしていたり、
日本では某有名人の専属マッサージ師をしていたこともあったらしい。
でも、私が惹かれたのはそこじゃなくて
先生の価値観とか、死生観みたいなもの。
当時は緩和ケアやターミナルケアに強く興味があったので
重篤な病の人とどう関わるか模索したいと思っていた。
先生はヨルダンから帰国後しばらく、がんになったご友人の世話を焼いたそうだ。
話の細かいところは覚えていないのだが、
ヨルダンで貯めたお金を使って先生が最期までその方を看たという話だった。
「私の周りって結構 がんが多いの」
そのあたりが多分きっかけになって
先生はリンパドレナージュ(リンパ浮腫を改善するための専門マッサージ)の施術者でもあった。
リンパ浮腫を患うのはがんの手術後が多いので、よく、がんになった人たちの話をした。


そこから、死ぬときは私もがんで死にたい、他の病気と違ってがんは死ぬ準備ができるからいいと思うの、
という、一生忘れることのない会話をした。
前後して先生のお父様が病院をたらい回しにされたのが元で亡くなった時には
珍しく声を荒げていたことも思い出す。
よく先生と死についての話はしたけれど、早く死んでも良いとか考えていたわけではなかった。
先生の「寿々洋」という名前は本名で、しかも読み方は「すずよ」ではなく「すずよう」という。
珍しい名前の由来を聞いたら、お父様が独断でつけたそうで
真意はわからないけれど、
戦争で南洋にいた頃、現地で奥さんのような存在の人がいて、
その人の名前の音を漢字に当てはめたのではないか、と言っていた。
「父は戦争に行って戦後もすぐには帰国できず大変な苦労をした。
お国の為にと尽くしたのに、最期にそのお国から粗末に扱われて、
こんな仕打ちってあるかしら。父はもっともっと、生きたかったと思うの」
私達鍼灸マッサージ師の社会的な発言力はとても弱い。
立場を良くするためには
たくさん稼いでたくさん税金を払いなさい、と言ったのも川辺先生だった。
会うたびにお互い話題には尽きなかった。
最後に会ったのは去年の夏、学校の臨床実習施設で、
現在のあん摩マッサージ指圧授業に苦言を呈していた。
先生の施術の手は大変柔らかく、優しいタッチが特徴で、
試しに先生の目の前で私のことをちょっと揉んだ研修生に
「そんなやり方はダメよ」
と一言ぴしゃりと仰った。
そういう風な言い方で注意をされたのは初めてで、同時に妙にピリピリした空気というか
先生が苛立っているのを感じた。
そういえば、卒業以来 なかなかマッサージを習う機会はない。
あらためてもう一度、先生が考えるあん摩マッサージ指圧を、個人的に教えてもらえませんかとお願いしたら
今は引き取って飼い始めた保護猫たちのことで忙しいから、
引っ越しして落ち着いてからならいいわよ、
と言ってもらえた。
じゃあ10月過ぎたら連絡しますね
と言いつつ、なんとなく私も忙しくて先生に連絡しないまま年が明けてしまった。
そしてまた夏がやってきたが、連絡することは忘れていた。
その川辺先生が今月初めに亡くなったと学校に連絡が入ったらしい。
2週間前までは講師をされていたそうだから誰にとっても突然の訃報だった。
昨年の、やや厳しい言動は根底にご自分でも気づかないような体調の変化もあったのだろうか。
まだ64歳だった。
今も先生の声と顔をありありと思い出す。
特に先生がお父様を亡くされた時に聞いた「もっともっと生きたかったと思うの」というフレーズが
「私はもっともっと生きたかった」
に頭の中で変換されて聞こえてきてしまう。
先生、酷いなあ。
いつか私たち、がんで死ぬはずじゃなかったの。
そしたら多分、ちゃんとお別れする準備の時間が持てたのに。
人の背中に指を当てるとき、川辺先生の小さくて丸みを帯びた優しい手を思い出す。
どうして去年のうちに連絡して一度でも教えを乞わなかったのかと
後悔もしている。




先生、私もいつかはそちらに行きますので気長に待っていてください。
また たくさん お話ししましょう。